翌朝――「え? アメリカですか? アメリカで明日香さんは出産するんですか?」朱莉は電話で話をしている。その会話の相手は他でも無い、姫宮だった。『はい。アメリカには私の知り合いの産婦人科医がいます。また彼女は代理出産も手掛けています。私の方から彼女にはよく説明を行いました。このまま明日香さんには出産までアメリカに住んでいただくことになりました』「ええっ!? そ、それは本当ですか!?」あまりにもスケールの大きな話になり、朱莉は今更ながら怖くなってきた。「あ、あのそれって法律に触れるとか……?」『ご安心下さい。書類は違法にならないように完璧に仕上げてあります。ですが、もし万一のことがあったとしても絶対に朱莉さんにだけは被害が及ばないように念入りに手を打ってありますので何も心配することはございません』電話口の姫宮はきっぱり言った。「わ、私も……アメリカに行ったほうがいいんでしょうか……?」朱莉は声を震わせながら尋ねた。(順調にいけば、明日香さんが赤ちゃんを産むのは後4カ月後……それまで私は言葉が通じない国へ……?)『いいえ、朱莉さんはアメリカには行かなくて大丈夫です。というか……むしろ来ない方が良いかと。このまま沖縄に残って下さい。明日香さんがアメリカから戻って来る迄は』その話し方は有無を言わさぬものだった。「あ、あの……明日香さんはお1人でアメリカに行くのですか?」『行き帰りは私と副社長が付き添います。アメリカで明日香さんが住む家も借りましたし、現地スタッフと家政婦も雇ってありますので明日香さんを心配する必要は一切ございません』「そうですか……」(すごい……もうそこまで手を回していたなんて。翔先輩が優秀な人物と言っていただけのことはあるな……)『こちらでも色々と準備がありますので、沖縄を出発するのは3日後になります。それと、明日香さんの身の回りのお世話の必要はもうございませんので、朱莉さんはどうぞ今迄通りの生活をなさって下さい。定期報告はメールでいたします』「はい……分かりました……」どこまでも淡々と話す姫宮に朱莉はすっかり押されていた。『それでは失礼いたします』電話を切ろうとする姫宮に朱莉は慌てて声をかけた。「あ、あのっ!」『はい、何でしょうか?』「この話……アメリカに行く話、明日香さんは納得されているのでしょうか?
—―3日後、午前9時 朱莉は明日香と翔、そして姫宮の見送りに那覇空港に来ていた。「朱莉さん。今迄色々世話になったね。次に会うのは明日香が出産後だから数か月先になるけど、また日本に帰国したらその時はまたよろしく頼むよ」翔が笑みを浮かべて朱莉に言う。「はい、分かりました」「朱莉さん。色々ありがとう。貴女がいてくれて本当に助かったわ」明日香は、大分目立ってきたお腹をかかえるように立っていた。「明日香さん……道中、お気をつけて」朱莉は心配そうに声をかけると、代わりに姫宮が答えた。「大丈夫です。明日香さんの体調を考え、ファーストクラスのシートを取りました」「そうですか。なら安心ですね」「だったらいいけどね。途中で産気づかなきゃいいけど」明日香の言葉に翔はギョッとした顔をする。「あ、明日香! 縁起でもないことを言わないでくれ」「何よ、ほんの冗談に決まっているでしょう?」明日香はツンとした顔になる。「このまま直接アメリカへ行くのですか?」朱莉が誰ともなしに質問すると明日香が答えた。「まさか! このままなんか行かないわよ。一度六本木に戻って色々準備しなくちゃ。そう言えば翔、熱帯魚はどうなったのかしら?」「ああ、あれは億ションに寄付したんだ。あの建物内の何処かに置いてくれるように頼んだよ」「そうね……。仕方ないわね」その時、空港内にアナウンスが響き渡った。羽田空港行の便に関するアナウンスである。それを聞いた姫宮が言った。「それでは、副社長、明日香さん。そろそろ行きましょう」そして朱莉を向くと小声で囁いた。「朱莉さん。待っていて下さいね」「え?」朱莉は今の姫宮の話し方に反応した。『待っていて下さいね』(姫宮さん……まるでその口ぶりは……)「朱莉さん、どうかしたの?」突然明日香に声をかけられて朱莉はハッとなり、慌てて首を振った。「い、いえ。何でもありません」そしてそんな朱莉の姿を意味深な眼つきで見つめる姫宮。その目は何処かで見たことがあるような目にも見えてきた。(姫宮さん……?)「それじゃ、皆行こうか?」翔が明日香と姫宮に声をかける。「朱莉さん。元気でね。予定通りなら10月にまた会いましょう」明日香が朱莉に言う。「はい、お待ちしています」そして、3人は朱莉に見送られ、一路羽田空港へと向かった――朱莉は3人を
「いやあ~本当に偶然ですね」安西が朱莉の前でアイスコーヒーに手を伸ばした。「ええ……驚きました。まさか沖縄にいらしていたなんて」朱莉はアイスカフェオレを飲みながら、チラリと安西の隣に座る茶髪に染めた青年を見る。安西の隣に座る青年は安西航(わたる)。安西の息子で22歳、彼の事務所でスタッフとして働いているらしい。今回、翔と姫宮の関係を調べてくれたのも彼である。「え~と……航君? この度は色々知らベて頂いてありがとうございます」「ウッ! ゴホッ!」突然航は咳き込んだ。「あ、あの大丈夫ですか?」朱莉は驚いて声をかける。「何ですか……。いきなり君付けなんて」ジロリと航は朱莉を見た。「あ……ご、ごめんなさい。年下だったのでつい」「まあまあ、航。別にいいじゃないか。君付けで呼ばれたって。いやあ~しかし本当に沖縄は暑い所なんですね~」安西の言葉に朱莉は頷く。「そうですね。東京も暑いですが、沖縄は東京とはまた違った暑さですよね。湿度が高いせいでしょうか?」「成程……確かに外の気温を現す電光掲示板に湿度が表示されていたのですが、気温は東京の方が高いのに、沖縄の湿度が83%になっていたので驚きですよ!」安西は大袈裟な身振り手振りで説明する。「あの、それで今回は何故沖縄に? もしかして親子で旅行ですか?」朱莉が尋ねると、安西は頭を掻いた。「いや〜旅行だったら……良かったんですけどね……」「成人した男が父親と2人で旅行に行くはず無いでしょう?」ブスッとした様子で航が言う。「それじゃお仕事ですか。大変ですね。東京からわざわざ沖縄までなんて」「ええ、まあ……。っとすみません。これ以上のことは個人情報なのでお話し出来なくて。一応調査期間は3週間なんですよ。私は東京の事務所に戻らなければならないので、息子の航を派遣したんです。今日沖縄に着いたばかりなんですよ」「それは大変でしたね。それで安西さんはいつ東京に戻られるのですか?」朱莉は東京に戻る時は安西の見送りに来ようと考えていた。「それが、折角沖縄に来たのでゆっくり滞在したいのが本音ですが……明日には東京へ戻らないとならないんです」残念そうな顔で安西が言う。「そうなんですね。何時の便ですか? 是非お見送りさせて下さい」朱莉が言うと、安西は慌てた。「いえいえ、何を仰っているんですか? 見
「きっと、朱莉さんのお陰ですよ。貴女には本当に悪いことをしてしまったのに、色々親切にして貰って感謝していると何度も言ってましたよ」「そうですか……明日香さんが……」安西の言葉に朱莉は思わず頬を染めて、俯いた。すると航が言う。「貴女って変わった人ですよね? 話は聞いたけど相当酷いことをあの女にされてきたじゃないですか?それなのに憎むどころか親切にして。しかも彼女の話を今も嬉しそうに聞いていたし」「確かにそうかもしれないけれど、私は誰かといがみ合いたくはないんです。出来れば皆と仲良くしていきたいと思っているんです」朱莉の答えを航はつまらなそうに聞いている。「あっと……いけない。そろそろホテルに戻らないと」不意に安西が腕時計を見た。「どちらのホテルですか? お送りしますよ?」朱莉が言うと安西は首を振った。「いえいえ。そんなご迷惑は……」しかし、航は言う。「いいじゃないか、送って貰えば」「航! お前と言う奴は……!」そんな2人を見て、朱莉はクスリと笑った。「遠慮なさらないで下さい。東京では色々とお世話になったんですから」こうして渋る安西はようやく納得し、朱莉は2人を連れて車で送ることになった。**** 朱莉の車に乗り込んだ安西は言った。「おお、これは素敵な車ですね。女性らしさを感じる。買って間もないんですか?」「まだ2か月程ですね。免許を取ってすぐに車を買ったので」朱莉が答えると航が驚いた。「ええ!? な、何だって!? それじゃまだ運転歴が浅いのか!? おい、大丈夫なのか?」「大丈夫ですよ。車を買ってからは毎日乗ってるんですから。車庫入れだってばっちりです。それより気付かなかったんですか? 初心者マーク貼ってあることに」確かに朱莉の車には前後に初心者マークが貼ってある。「うっ! ほ、本当だ……。気が付かなかった……。お、俺としたことが……」何故か大袈裟に悔しがる航。その姿に朱莉は思わずクスクス笑ってしまった。「どうしたんですか? 朱莉さん」突然笑い出した朱莉を不思議に思い、安西は声をかけた。「い、いえ……。初心者マークを見落とすのに、興信所の方なんだと思うと、つ、つい……」「な……! ひょっとして……俺を馬鹿にしてます?」航の恨めしそうな声に朱莉は慌てて謝罪した。「す、すみません。そんなつもりじゃ……ただ可愛
翌朝――朱莉は昨日約束した通り、安西親子の宿泊するホテルに迎えにやって来ていた。駐車場で待っていると安西と航がこちらへ向かってくる姿が見えた。「おはようございます、安西さん。航君」笑顔で2人を出迎える朱莉。「朱莉さん、おはようございます。本当にこんな朝早くから申し訳ございません」「おはよう」航も朱莉に挨拶する。その時、航は大きなキャリーケースを手にしていたが、この時の朱莉はそれを特に気にも留めることは無かった。「それでは空港へ向かいましょうか? どうぞお乗りください」朱莉は2人を乗せると那覇空港へ出発した――****「いや〜本当に助かりましたよ。朱莉さん」空港に着くと安西は何度も何度も朱莉に頭を下げてきた。「そんな、顔を上げて下さい。私から言い出したことなのですから」朱莉は困り顔で言うと、アナウンスが流れた。それは羽田行きの便が到着した知らせである。「ほら、父さん。もう行けよ」航が安西に声をかけた。「ああ、そうだな。こんな所でいつまでも朱莉さんをお引止めするわけにもいかないし。それじゃ、航。今日から3週間しっかり頼んだぞ」「言われなくても分かってるよ。これでもプロのつもりだからな」「朱莉さん。それではこれで失礼しますね」「はい、どうぞお元気で」朱莉は笑顔で安西に別れの挨拶をすると、彼は背を向けて歩き去って行った。航と2人きりになった朱莉は尋ねた。「ねえ航君。ところでこの大きな荷物は一体何?」「はあ? 見れば分かるだろう? 沖縄に滞在するまでの俺の着替えとかが入ってるんだよ」すっかり航は年上の朱莉に対してぞんざいな口を利くようになっている。「え? 着替え? さっきのビジネスホテルにずっと泊まるんじゃなかったの?」「あのなあ……こちらは限られた予算で動いているんだ。そんな無駄なこと出来るはずは無いだろう? ネットカフェに泊るんだよ。こんなに暑くなければキャンプ場でテント張って寝泊まりするんだけどな……」航は遠くを見るような眼つきになる。「ええ!? そうだったの……? ひょっとしていつもそうやって遠方での調査はネットカフェに泊まっていたの?」朱莉はあまりの話に驚いた。「いや、こんなことは初めてだ。何せ場所が沖縄だもんな。それじゃ俺はもう行くよ。これからネットカフェを探さないといけないから。じゃあな」そう言っ
「ほ、本当にこんなすごい部屋に住んでたのか……!?」航は部屋に入るなり、驚きの声を上げた。「うん……。そうなんだ。だから言ったでしょう? 部屋は広いし、一部屋余ってるから3週間の間、ここに住めばって言ったの分かった?」朱莉は航の背後から声をかけた。「だけど……本当にいいのかよ」突如航が真剣な顔で朱莉を見る。「え? 何がいいって?」「だって……仮にも俺は男であんたは女だ。他人同士の男女が1つ屋根の下に住むなんて世間的に見たらおかしいだろう?」「う~ん……確かに。でも私は誰も知り合いがいないから、何か聞かれることも無いんだけどな…」「い、いや。俺が言ってるのはそういう意味じゃなくて……」「あ、それじゃもしコンシェルジュの人に何か聞かれたら……私の年下のいとこってことにすればいいんじゃない?」朱莉はポンと手を叩く。「へ……? いとこ……? だ、だから俺が言いたいのは……」そこまで言いかけた時、航の足元に何かが飛びついてきた。「うわああああ!?」突然の出来事に航が驚いて下を見ると、足元にはネイビーがいた。「へ……? う、うさぎ……?」「ネイビー。おいで」朱莉はネイビーを抱き上げると航に説明した。「このこはネイビーって言う私の大切なペットなの。これからよろしくね。航君」「あ、ああ……よ、よろしく……」航は呆然としながら言った。そして心の中で思う。もう、どうにでもなれ――と。****「それじゃ、俺はこれから調査に向わないといけないから」航はカメラやら小型PCなどを取り出し、リュックに詰めた。「大変だね、到着して早々に仕事なんて」朱莉はその様子を見ながら声をかける。「仕方ないさ。こっちはギリギリの日程で動いているんだ。休んでる暇なんてないさ」そんな様子の航を見ながら朱莉は思った。(何だか、大変そうだな……。そうだ)「航君、車で送ろうか?」「は……はあ!? な、何言ってるんだよ! そんな事無理に決まってるだろう!?」航は大声で反論した。「え? 無理なの?」「当り前だ! 個人保護法に乗っ取って、俺達は仕事してるんだ。関係無い人間を現場に連れて行けるはずが無いだろう?」「そっか……言われてみればそうだったね。ごめね、航君」「べ、別に謝ることじゃないだろう?」(全く……朱莉って女がこんな天然な性格をしているとは
航が玄関を出て行くのを見届けた朱莉は足元にいたネイビーを抱きかかえた。「ネイビー。誰かに行ってらっしゃいって言えることって何だか嬉しいね」考えてみれば朱莉は母が入院生活に入ってからは何年もの間、1人で暮していた。父の死と会社の倒産、そして高校中退という環境は朱莉から友人を奪ってゆき、代わりに孤独を与えたのだ。でも、誰かが側にいて一緒に暮らす……このことを考えるだけで朱莉の心は楽しくなった。ここは広々とした大きな部屋。必要な物は何でも揃っているが朱莉が本当に欲しいものは手に入ることは無かった。孤独な生活から抜け出したいとこんなにも自分が望んでいたとは今迄思ってもいなかった。「航君……カレー好きかな?」朱莉はネイビーの背中を撫でながら、そっと呟くのだった——**** 19時過ぎ—― 朱莉の部屋のインターホンが鳴った。カメラを確認するとそこに立っていたのは疲れ切った顔をした航であった。「航君? 待ってね。今ドアを開けるから」朱莉はボタンを操作すると、航の立っているホールの自動ドアが開いた。「……スゲー設備」ボソッと航は呟くと、重たい足を引きずって中へと入って行った――5階の朱莉の部屋の前に付くと、航は再度インターホンを押す。するとすぐにドアが開けられた。「お帰りさない、航君」そこには満面の笑顔の朱莉が立っていた。「な、な、なんでそんな笑ってるんだよ……」航は後ずさりながら尋ねると朱莉の頬が赤く染まる。(え……? 朱莉……?)航は一瞬ドキリとした、次の瞬間。朱莉が口を開いた。「あ、あのね……。私ずっと1人暮らしが長かったから……誰かに『お帰りなさい』って言ってみたかったの。ありがとう、航君」満面の笑顔で微笑まれ、航は戸惑ってしまった。まさか、たったこれだけのことで朱莉がこんなに幸せそうな笑顔を見せるとは思わなかった。そして、それと同時にフツフツと翔に対して怒りが込み上げて来るのも事実だった。(くそ! あの翔とか言う男め。いくら大企業の副社長だからと言って非人道的なことしやがって……!)航は思わず拳をギュッと握りしめた。そんな様子の航を見ながら朱莉が声をかけた。「航君、疲れてるみたいだね? そうだ! ご飯の前に先にお風呂に入る? あのね、ここのマンションのお風呂にはジェットバスやミストサウナがついてるの。試してみたら?」
30分後—―航がバスルームから出てきた。丁度朱莉はその時、ネットで英会話の勉強をしている所だった。「あ、お、お風呂ありがとう」航は目を伏せながら礼を述べる。「あれ? 航君もう上がってきたの? 早かったね」朱莉は立ち上がった。「そりゃ、あれだけ広くて綺麗だとかえって落ち着いて風呂なんかに入っていられないだろう? 何だか自分が酷く場違いな所にいるような感覚になっちまったんだよ!」言いながら航は思った。俺は何故こんなにも力説しているのだろう……と。「ねえ、航君。今夜カレーを作ってみたんだけど、好き?」「うん? カレーを嫌いな奴なんてこの世にいるのか?」航の返事に朱莉は嬉しくなった。「良かった〜もし嫌いだって言われたらどうしようかと思っちゃった」「だから俺言っただろう? 別に好き嫌いは無いって」「そう言えばそうだったね。さ。それじゃ座って座って」朱莉は嬉しそうに航に椅子を進める。「待っていてね、すぐに準備するから」冷蔵庫から用意しておいたアボガドに蒸しエビが入ったサラダと福神漬けを出してくると、楕円形のプレートに熱々ご飯と彩りたっぷりのカレーをよそい、航の座るテーブルの前に置いた。「へえ~見た目はいいじゃないか」航はつい照れ隠しに意地悪なことを言ってしまった。「そう? ありがとう。それじゃ味はどうかな? 食べてみてくれる?」「う、うん。いただきます」そしてスプーンですくって口に入れる。「……うまい」「本当?」朱莉は嬉しそうに笑った。「ああ、美味いよ。まあもっともカレーを不味く作る奴の方が珍しいだろうけどな」そこまで言って、また航はハッと思った。(お、俺は、又ひねくれたことを……)恐る恐る朱莉の様子を伺うも、朱莉は気にする素振りも無く美味しそうにカレーを口に運んでいる。「やっぱり誰かと食べる食事って、それだけでご馳走だよね?」朱莉のその言葉を聞いた時、航は何だか胸が締め付けられそうに感じ、改めて部屋の中を見渡した。2LDKの広々とした部屋。この部屋でも1人暮らしの朱莉には十分すぎる広さなのに、聞くところによると六本木の朱莉が住む億ションはこことは比較にならない位の広い部屋だという。(そんな広い部屋で……ずっと1人きりで住んでいたのかよ……。しかもこの先後5年間も……!)再び、航の中で翔に対する怒りが湧いてくるの
航と琢磨は互いにエントランスで睨み合っていた。朱莉の姿がいなくなると最初に口を開いたのは琢磨の方だった。「名前は聞かされていなかったけど君なんだろう? 興信所の調査員で、仕事の為に沖縄に来て朱莉さんと知り合って、同居していたって言うのは」「ああ、そうさ。朱莉、あんたに俺のこと話していたんだな?」航はニヤリと笑った。「どうやらお前は相当口が悪いみたいだな? だったらこちらも遠慮するのはもうやめるか」「へえ? あんたは京極とはタイプが違うんだな?」「何? 京極のことを知ってるのか?」「その反応からするとあんたも京極のことを良くは思っていないようだな?」琢磨は航の口ぶりから警戒心をあらわにした。「お前一体どこまで知ってるんだ? 興信所の調査員だって言ってたな? ひょっとして朱莉さんと知り合ったのも俺達絡みの件でか?」「へえ? その口ぶりだと心当たりがありそうだな? だが俺がそんなこと話すと思うのか? 仮にも俺は調査員だからな」航は挑発をやめない。そもそも朱莉と翔の偽装結婚のきっかけを作った琢磨が憎くて堪らなかった。(九条の奴が朱莉をあんな奴に紹介さえしなければ……)そう思うと琢磨に対する怒りがどうにも抑えられない。琢磨も初めの内は何故自分が航から敵意のこもった目で睨まれるのか見当がつかなかったが、調査員と言うことを考えれば、今迄の経緯を全て知ってるかもしれないと気付いた。(ここで話をするのはまずいな……)「おい、どうした? 急に黙って」航は怪訝そうな顔を見せた。「取りあえず……ここで話をするのは色々とまずい」「あ、ああ。言われてみればそうだな」航も辺りを見渡しながら、京極に言われた言葉を思い出した。「あまり遅くなると朱莉さんが心配する。取りあえず話は後にしよう。もし時間があるなら朱莉さんの手料理を食べた後場所を変えて話をしないか?」琢磨は航に提案した。「ああ。それでいいぜ。あんたには言いたいことが山ほどあるからな」航の言葉に、琢磨は不敵な笑みを浮かべる。「ふ~ん。どんな話が聞けるかそれは楽しみだ」そして2人の男は互いを見つめ……「「取りあえず荷物を降ろすか」」声を揃えた――****「航君と九条さん、遅いな……」料理を作りながら朱莉はソワソワしていた。「喧嘩とかしていたらどうしよう……。迎えに行ってみよう
琢磨は雨に打たれながら、朱莉と航が抱き合ている姿を呆然と見ていた。(誰なんだ……? あの男……航君と呼んでいたけど、まさか朱莉さんが沖縄で同居していた男なのか?)気付けば琢磨は歯を食いしばり、両手を強く握りしめていた。そして一度自分を落ち着かせる為に深呼吸すると、2人に近寄って声をかけた。「朱莉さん。その人は誰だい?」すると、その時航は初めて朱莉から離れて顔を上げ、琢磨の顔を見ると表情を変えた。「あ……あんたは九条琢磨……」(何? この男は俺のことを知っているのか?)そこで琢磨は尋ねた。「君は何故俺のことを知っているんだい?」すると航は言った。「そんなのは当たり前だろう? 自分がどれだけ有名人か分かっていないのか? 元鳴海グループの副社長の秘書。そして今は【ラージウェアハウス】の若き社長だからな」「そうか……。それで君は?」琢磨はイラついた様子で航を見た。航は先ほどからピタリと朱莉に張り付いて離れない。それがどうにも気に入らなかった。「あの、九条さん。彼は……」朱莉は琢磨のいつもとは違う様子に気付き、口を開きかけた所を航が止めた。「いいよ、朱莉。俺から自己紹介するから」その言葉を聞き、琢磨は眉が上がった。(朱莉……? 朱莉さんのことを呼び捨てにしているのか!? どう見ても朱莉さんよりは年下に見えるこの男は……)「俺は安西航。仕事で沖縄へ行った時に朱莉と知り合って1週間程あのマンションで同居させて貰っていたんだ。貴方ですよね? 朱莉の為にあのマンションを選んでくれたのは。2LDKだったからお陰で助かりましたよ」何処か挑発的に言う航。腹の中は怒りで煮えたぎっていた。(くそ……っ! この男が朱莉を鳴海翔に紹介しなければ朱莉はこんな目に遭う事は無かったのに……! それにしても悔しいが、顔は確かにいいな……)琢磨は何故航がこれ程自分を睨み付けているのか見当がつかなかった。(ひょっとしてこの男は朱莉さんのことが好きだから俺を目の敵にしてるのか?)一方、困ってしまったのは朱莉の方だ。まさか今迄音信不通だった航が突然自分の住んでいる億ションに現れるとは夢にも思っていなかったからだ。航とは話がしたいと思っていたので朱莉は提案した。「あの……取りあえず中へ入りませんか? 食事を用意するので」すると航は笑顔になった。「いいのか? 朱
「翔さん、落ち着いて下さい。医者の話では出産と過呼吸のショックで一時的に記憶が抜け落ちただけかもしれないと言っていたではありませんか。それに対処法としてむやみに記憶を呼び起こそうとする行為もしてはいけないと言われましたよね?」「ああ……だから俺は何も言わず我慢しているんだ……」「翔さん。取りあえず今は待つしかありません。時がやがて解決へ導いてくれる事を信じるしかありません」やがて、2人は一つの部屋の前で足を止めた。この部屋に明日香の目を胡麻化す為に臨時で雇った蓮の母親役の日本人女子大生と、日本人ベビーシッター。そして生れて間もない蓮が宿泊している。 翔は深呼吸すると、部屋のドアをノックした。すると、程なくしてドアが開かれ、ベビーシッターの女性が現れた。「鳴海様、お待ちしておりました」「蓮の様子はどうだい?」「良くお休みになられていますよ。どうぞ中へお入りください」促されて翔と姫宮は部屋の中へ入ると、そこには翔が雇った蓮の母親役の女子大生がいない。「ん? 例の女子大生は何処へ行ったんだ?」するとシッターの女性が説明した。「彼女は買い物へ行きましたよ。アメリカ土産を持って東京へ戻ると言って、買い物に出かけられました。それにしても随分派手な母親役を選びましたね?」「仕方なかったのです。急な話でしたから。それより蓮君はどちらにいるのですか?」姫宮はシッターの女性の言葉を気にもせず、尋ねた。「ええ。こちらで良く眠っておられますよ」案内されたベビーベッドには生後9日目の新生児が眠っている。「まあ……何て可愛いのでしょう」姫宮は頬を染めて蓮を見つめている。「あ、ああ……。確かに可愛いな……」翔は蓮を見ながら思った。(目元と口元は特に明日香に似ているな)「残念だったよ、起きていれば抱き上げることが出来たんだけどな。帰国するともうそれもかなわなくなる」すると姫宮が言った。「いえ、そんなことはありません。帰国した後は朱莉さんの元へ会いに行けばいいのですから」「え? 姫宮さん?」翔が怪訝そうな顔を見せると、姫宮は、一種焦った顔をみせた。「いえ、何でもありません。今の話は忘れてください」「あ、ああ……。それじゃ蓮の事をよろしく頼む」翔がシッターの女性に言うと、彼女は驚いた顔を見せた。「え? もう行かれるのですか?」「ああ。実はこ
アメリカ—— 明日いよいよ翔たちは日本へ帰国する。翔は自分が滞在しているホテルに明日香を連れ帰り、荷造りの準備をしていた。その一方、未だに自分が27歳の女性だと言うことを信用しない明日香は鏡の前に座り、イライラしながら自分の顔を眺めている。「全く……どういうことなの? こんなに自分の顔が老けてしまったなんて……」それを聞いた翔は声をかける。「何言ってるんだ、明日香。お前はちっとも老けていないよ。いつもどおりに綺麗な明日香だ」すると……。「ちょっと! 何言ってるのよ、翔! 自分迄老け込んで、とうとう頭もやられてしまったんじゃないの? 今迄そんなこと私に言ったこと無かったじゃない。大体おかしいわよ? 私が病院で目を覚ました時から妙にベタベタしてくるし……気味が悪いわ。もしかして私に気があるの? 言っておくけど仮にも血が繋がらなくたって私と翔は兄と妹って立場なんだから! 私に対して変な気を絶対に起こさないでね!?」明日香は自分の身体を守るように抱きかかえ、翔を睨み付けた。「あ、ああ。勿論だ、明日香。俺とお前は兄と妹なんだから……そんなことあるはず無いだろう?」苦笑する翔。「ふ~ん……翔の言葉、信用してもいいのね?」「ああ、勿論さ」「だったらこの部屋は私1人で借りるからね! 翔は別の部屋を借りてきてちょうだい。 あ、でも姫宮さんは別にいて貰っても構わないけど?」明日香は部屋で書類を眺めていた姫宮に声をかける。「はい、ありがとうございます」姫宮は明日香に丁寧に挨拶をした。「それでは翔さん、別の部屋の宿泊手続きを取りにフロントへ御一緒させていただきます。明日香さん。明日は日本へ帰国されるので今はお身体をお安め下さい」姫宮は一礼すると、翔に声をかけた。「それでは参りましょう。翔さん」「あ、ああ。そうだな。それじゃ明日香、まだ本調子じゃないんだからゆっくり休んでるんだぞ?」部屋を出る際に翔は明日香に声をかけた。「大丈夫、分かってるわよ。自分でも何だかおかしいと思ってるのよ。急に老け込んでしまったし……大体私は何で病院にいたの? 交通事故? それとも大病? そうでなければ身体があんな風になるはず無いもの……」明日香は頭を押さえながらブツブツ呟く「ならベッドで横になっていた方がいいな」「そうね……。そうさせて貰うわ」返事をすると
琢磨に礼を言われ、朱莉は恐縮した。「い、いえ。お礼を言われるほどのことはしていませんから」「朱莉さん、そろそろ17時になる。折角だから何処かで食事でもして帰らないかい?」「あ、それならもし九条さんさえよろしければ、うちに来ませんか? あまり大した食事はご用意出来ないかもしれませんが、なにか作りますよ?」朱莉の提案に琢磨は目を輝かせた。「え?いいのかい?」「はい、勿論です。あ……でもそれだと九条さんの相手の女性の方に悪いかもしれませんね……」「え?」その言葉に、一瞬琢磨は固まる。(い、今……朱莉さん何て言ったんだ……?)「朱莉さん……ひょっとして俺に彼女でもいると思ってるのかい?」琢磨はコーヒーカップを置いた。「え? いらっしゃらないんですか?」朱莉は不思議そうに首を傾げた。「い、いや。普通に考えてみれば彼女がいる男が別の女性を食事に誘ったり、こうして買い物について来るような真似はしないと思わないかい?」「言われてみれば確かにそうですね。変なことを言ってすみませんでした」朱莉が照れたように謝るので琢磨は真剣な顔で尋ねた。「朱莉さん、何故俺に彼女がいると思ったの?」「え? それは九条さんが素敵な男性だからです。普通誰でも恋人がいると思うのでは無いですか?」「あ、朱莉さん……」(そんな風に言ってくれるってことは……朱莉さんも俺のことをそう言う目で見てくれているってことなんだよな? だが……これは喜ぶべきことなのだろうか……?)琢磨は複雑な心境でカフェ・ラテを飲む朱莉を見つめた。すると琢磨の視線に気づく朱莉。「九条さんは何か好き嫌いとかはありますか?」「いや、俺は好き嫌いは無いよ。何でも食べるから大丈夫だよ」それを聞いた朱莉は嬉しそうに笑った。「九条さんも好き嫌い無いんですね。航君みたい……」その名前を琢磨は聞き逃さなかった。「航君?」「あ、いけない! すみません、九条さん、変なことを言ってしまいました。そ、それじゃもう行きませんか?」朱莉は慌てて、まるで胡麻化すように席を立ちあがった。「あ、ああ。そうだね。行こうか?」琢磨も何事も無かったかの様に立ち上がったが、心は穏やかでは無かった。(航君……? 一体誰のことなんだろう? まさかその人物が朱莉さんと沖縄で同居していた男なのか?それにしても君付けで呼ぶなん
14時―― 朱莉がエントランス前に行くと、すでに琢磨が億ションの前に車を停めて待っていた。「お待たせしてすみません。九条さん、もういらしてたんですね」朱莉は慌てて頭を下げた。「いや、そんなことはないよ。だってまだ約束時間の5分以上前だからね」琢磨は笑顔で答えた。本当はまた今日も朱莉に会えるのが嬉しくて、今から15分以上も前にここに到着していたことは朱莉には内緒である。「それじゃ、乗って。朱莉さん」琢磨は助手席のドアを開けた。「はい、ありがとうございます」朱莉が助手席に座ると、琢磨も乗り込んだ。シートベルトを締めてハンドルを握ると早速朱莉に尋ねた。「朱莉さんは何処へ行こうとしていたんだっけ?」「はい。赤ちゃんの為に何か素敵なCDでも買いに行こうと思っていたんです。それとまだ買い足したいベビー用品もあるんです」「よし、それじゃ大型店舗のある店へ行ってみよう」「はい、お願いします」琢磨はアクセルを踏んだ――**** それから約3時間後――朱莉の買い物全てが終了し、車に荷物を積み込んだ2人はカフェでコーヒーを飲みに来ていた。「思った以上に買い物に時間がかかってしまったね」「すみません。九条さん……私のせいで」朱莉が申し訳なさそうに頭を下げた。「い、いや。そう意味で言ったんじゃないんだ。まさか粉ミルクだけでもあんなに色々な種類があるとは思わなかったんだよ」「本当ですね。取りあえず、どんなのが良いか分からなくて何種類も買ってしまいましたけど口に合う、合わないってあるんでしょうかね?」「う~ん……どうなんだろう。俺にはさっぱり分からないなあ……」琢磨は珈琲を口にした。「そう言えば、すっかり忘れていましたけど、九条さんの会社はインターネット通販会社でしたね?」「い、いや。俺の会社と言われると少し御幣を感じるけど……まあそうだね」「当然ベビー用品も扱っていますよね?」「うん、そうだね」「それでは今度からはベビー用品は九条さんの会社で利用させていただきます」「ありがとう。確かに新生児がいると母親は買い物も中々自由に行く事が難しいかもね。……よし、今度の企画会議でベビー用品のコンテンツをもっと広げるように提案してみるか……」琢磨は仕事モードの顔に変わる。「ついでに赤ちゃん用の音楽CDもあるといいですね。出来れば視聴も試せ
朝食を食べ終わり、片付けをしていると今度は朱莉の個人用スマホに電話がかかってきた。それは琢磨からであった。昨夜琢磨と互いのプライベートな電話番号とメールアドレスを交換したのである。「はい、もしもし」『おはよう、朱莉さん。翔から何か連絡はあったかい?』「はい、ありました。突然ですけど明日帰国してくるそうですね」『ああ、そうなんだ。俺の所にもそう言って来たよ。それで明日香ちゃんの為に俺にも空港に来てくれと言ってきたんだ。……当然朱莉さんは行くんだろう?』「はい、勿論行きます」『車で行くんだよね?』「はい、九条さんも車で行くのですね」『それが聞いてくれよ。翔から言われたんだ。車で来て欲しいけど、俺に運転しないでくれと言ってるんだ。仕方ないから帰りだけ代行運転手を頼んだんだよ。全く……いつまでも俺のことを自分の秘書扱いして……!』苦々し気に言う琢磨。それを聞いて朱莉は思った。(だけど九条さんも人がいいのよね。何だかんだ言っても、いつも翔先輩の言うことを聞いてあげているんだから)朱莉の思う通り、琢磨自身が未だに自分が翔の秘書の様な感覚が抜けきっていないのも事実である。それ故、多少無理難題を押し付けられても、つい言いなりになってしまうことに琢磨自身は気が付いていなかった。「でも、どうしてなんでしょうね? 九条さんに運転をさせないなんて」朱莉は不思議に思って尋ねた。『それはね、全て明日香ちゃんの為さ。明日香ちゃんは自分がまだ高校2年生だと思っているんだ。その状態で俺が車を運転する訳にはいかないんだろう。全く……せめて明日香ちゃんが自分のことを高3だと思ってくれていれば、在学中に免許を取ったと説明して運転出来たのに……』琢磨のその話がおかしくて、朱莉はクスリと笑ってしまった。「でもその場に私が現れたら、きっと変に思われますよね? 明日香さんには私のこと何て説明しているのでしょう?」『……』何故かそこで一度琢磨の声が途切れた。「どうしたのですか? 九条さん」『朱莉さん……君は何も聞かされていないのかい?』「え……?」『くそ! 翔の奴め……いつもいつも肝心なことを朱莉さんに説明しないで……!』「え? どういうことですか?」(何だろう……何か嫌な胸騒ぎがする)『俺も今朝聞いたばかりなんだよ。翔は現地で臨時にアルバイトとして女子大生と
「それじゃ、朱莉さん。次は翔から何か言ってくるかもしれないけど、くれぐれもアイツの滅茶苦茶な要求には答えたら駄目だからな?」タクシーに乗り込む直前の朱莉に琢磨は念を押した。「九条さんは随分心配性なんですね。私なら大丈夫ですから」朱莉は笑みを浮かべた。「もし翔から契約内容を変更したいと言ってきたら……そうだな。まずは俺に相談してから決めると返事をすればいい」するとタクシー運転手が話しかけてきた。「すみません。後が詰まってるので……出発させて貰いたいのですが……」「あ! すみません!」琢磨は慌ててタクシーから離れると、朱莉が乗り込んだ。車内で朱莉が琢磨に頭を下げる姿が見えたので、琢磨は手を振るとタクシーは走り去って行った。「ふう……」タクシーの後姿を見届けると、琢磨はスマホを取り出して、電話をかけた。「もしもし……はい。そうです。今別れた所です。……ええ。きちんと伝えましたよ。……後はお任せします。え? ……いいのかって? ……あなたなら何とかしてくれるでしょう? それだけの力があるのですから。……失礼します」そして電話を切ると、夜空を見上げた。「雨になりそうだな……」**** 翌朝――6時朱莉はベッドの中で目を覚ました。昨夜は琢磨から聞いた翔の伝言で頭がいっぱいで、まともに眠ることが出来なかった。寝不足でぼんやりする頭で起きて、着替えをするとカーテンを開けた。「あ……雨……。どうりで薄暗いと思った……」今日は朱莉の車が沖縄から届く日になっている。車が届いたら朱莉は新生児に効かせる為のCDを買いに行こうと思っていた。これから複雑な環境の中で育っていく子供だ。せめて綺麗な音楽に触れて、情操教育を養ってあげたいと朱莉は考えていた。洗濯物を回しながら朝食の準備をしていると、翔との連絡用のスマホに着信を知らせる音楽が鳴った。(まさか、翔先輩!?)朱莉はすぐに料理の手を止め、スマホを見るとやはり翔からのメッセージだった。今朝は一体どんな内容が書かれているのだろう? 翔からの連絡は嬉しさの反面、怖さも感じる。好きな人からの連絡なのだから嬉しい気持ちは確かにあるのだが問題はその中身である。大抵翔からのメールは朱莉の心を深く傷つける内容が殆どを占めている。(やっぱり契約内容の変更についてなのかなあ……)朱莉はスマホをタップした。『おは
「本当はこんなこと、朱莉さんに言いたくは無かった。だが翔が仮に今の話を直接朱莉さんに話したとしたら? 恐らく翔のことだ。きっと再び朱莉さんを傷付けるような言い方をして、挙句の果てに、これは命令だとか、ビジネスだ等と言って強引に再契約を結ばせるつもりに違いない。だがそんなこと、絶対に俺はさせない。無期限に朱莉さんを縛り付けるなんて絶対にあってはいけないんだ」琢磨は顔を歪めた。(え……無期限に明日香さんの子供の面倒を? それってつまり偽装婚も無期限ってこと……?)なので朱莉は琢磨に尋ねた。「あの……それってつまり翔さんは私との偽装結婚を無期限にする……ということでもあるのですよね?」(そうしたら、私……もう少しだけ翔先輩と関わっていけるってことなのかな?)しかし、次の瞬間朱莉の淡い期待は打ち砕かれることになる。「いや、翔の言いたいことはそうじゃないんだ。当初の予定通り偽装婚は残り3年半だけども子育てに関しては明日香ちゃんが記憶を取り戻すまで続けて貰いたいってことなんだよ」「え……?」「つまり、翔は3年半後には契約通りに朱莉さんと離婚して、子供だけは朱莉さんに引き続き面倒を見させる。しかも明日香ちゃんが記憶を取り戻すまで、無期限にだ。こんな虫のいい話あり得ると思うかい?」「……」朱莉はすっかり気落ちしてしまった。(やっぱり……ほんの少しでも翔先輩から愛情を分けて貰うのは所詮叶わないことなの? でも……)「九条さん」朱莉は顔を上げた。「何だい」「私、明日香さんと翔さんの赤ちゃんを今からお迎えするの、本当に楽しみにしてるんです。例え自分が産んだ子供で無くても、可愛い赤ちゃんとあの部屋で一緒に暮らすことが待ちきれなくて……」「朱莉さん……」「九条さん。もし、子供が3歳になっても明日香さんが記憶を取り戻せなかった場合は、翔さんは私に引き続き子供を育てて欲しいって言ってるわけですよね? それって……翔さんは記憶の戻っていない明日香さんにお子さんを会わせてしまった場合、お互いにとって精神面に悪影響が出るのではと苦慮して私に預かって貰いたいと思っているのではないでしょうか? だって、考えても見てください。ただでさえ10年分の記憶が抜けて自分は高校生だと信じて疑わない明日香さんに貴女の産んだ子供ですと言って対面させた場合、明日香さんが正常でいられると